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豊かな自然の中でくり広げられた木曽町町長選挙

日本共産党長野県委員会副委員長・有賀光良

 木曽福島町、日義村、開田村、三岳村の木曽郡の中央に位置する四町村が合併して、十一月一日に木曽町が発足しました。この木曽町の最初の町長選ぶ町長が十一月二十七日投票で行われ、田中勝己前木曽福島町長が対立候補の元県職員の磯尾秀雄氏を大差で破り当選しました。

木曽福島、日義、開田、三岳の特色を生かした町づくり

 田中勝己さんは、日頃「今回いっしょになる、日義村、開田村、三岳村は百三十年も合併したことのない村です。それぞれ、自然と風土のなかで、暮らしてきた文化や伝統のある村です。このようなそれぞれの町村の文化、伝統、コミュニティを壊してしまうような画一的なやり方では、木曽町がいい町になれません。

 四つの町村のそれぞれの個性を生かした町づくりをすすめるために、地域自治組織を提案してきました」と新木曽町にのぞむ思いを語ってきました。

 この考えは合併協議会会長としての会の運営の中でも貫かれ、木曽福島の「大国主義」的なやり方ではなく四町村平等の公平・公正な運営に努力してきました。このこととともに、合併後のそれぞれの地域の特色を生かした町づくりをすすめるというこの方向は、三村の村長や議員をはじめ、多くのみなさんから歓迎され、新しい町をまとめるのは田中さん以外にないという信頼を得てきました。

合併後「この村をどうする」

 今回の合併は、いくら対等合併をうたっても、日義、開田、三岳三村の人々は、「福島だけ発展して、自分の村がはじに寄せられたら困る」という思いを強く持っています。

 そして、「この村の行く末はどうなるのだろうか」という大きな不安をいだいて、合併と新町発足の選挙を迎えていました。

  田中さんは町長選挙にあたって、新しい町にのぞむ自分の思いを語るとともに、この住民の不安に応えて、「どうやったら元気な地域にしてゆくか」旧三村それぞれ毎の政策を発表しました。

旧三岳村・すばらしい景勝の地を発見

 木曽町三岳地区(旧三岳村)を一路御嶽山に向かって車で登って、屋敷野という一番奥の集落に入り始めると、「○○霊神」と書かれている独特の石碑が道路わきから山林の木立のなかまで、いたるところに建てられていて、その数の多いことにまず圧倒されます。

 十月の初めに、黒田前三岳村議の案内で、この集落の一番奥の家と言われる、今回の選挙で田中勝巳後援会長を引き受けていただいた元三岳村村長の浦澤英一さんを訪問したとき、家の周りの山林にびっしりと言っていいほど建てられている石碑をみて驚いたのですが、それでも、集落と石碑もこの辺で終わりかなと思っていました。

 十一月になって、浦澤さんの家の前を通ってさらに登ってゆくと行けども行けども石碑がたえません。つづら折りの山道をさらに登ってゆくと、かなり高い所まで、石碑や御嶽教の宗教施設の入り口がいくつもあります。それらを横目に見ながら登ってゆくと、この道をまっすぐ行けば、倉本という山の反対側の集落に下る峠に至ります。この峠を下らずに左に折れれば、何百年の昔から御嶽教の信者が通ってきた、御嶽山への登山道です。この峠まで、福島の中心部から車で約一時間、標高千五百メートルの地点にあり御嶽山の五合目付近にあります。

 倉本に向かって少し下りはじめると右側に「倉越(くらごえ)高原」へ向かう道があります。残念なことに「倉越高原」は現在JA長野の牛の牧場になっていて、通行止めと立ち入り禁止の標識がぶら下がっていました。やむなくさらに少し下ったところで、道路わきの小高いところへ登ってみました。

そこに見えたものは何でしょうか。

 左に御嶽山、正面に乗鞍岳、右に中央アルプス駒ケ岳、眼下に三岳村の山々とそれにつながる開田高原です。あまりのみごとな景色に感動してしばらく声も出ません。

 県歌「信濃の国」にうたわれている「御嶽・乗鞍・駒ケ岳」を一望できるこんなすばらしいところがあるなんて夢にも思いませんでした。

 さらに下ってゆくと、山々はおりしも紅葉の真っ盛りで、この中を歩けば、あの日本画家池上秀畝のえがく極彩色の風景画の中に自分がいるような気分になります。

五月の若葉の中を歩いたらどんなにすばらしいことだろうおもいます。

 感動につぐ感動。「これはまあすばらしい宝物を手に入れたものだ」と町長候補の田中勝己さんに伝えたくて、大急ぎで山を下りました。

 田中勝己事務所について、ちょうど昼食を終えたばかりの田中さんをつかまえて、「いや、すばらしいところだ」と話をすると、「昼休みはいいよ。じゃあすぐ行ってみよう」と立ち上がりました。

 こうして、田中さんの小型ジープで再度山道を駆け上がりました。秋の山の天気はすぐに変わります。午前中あれほど晴れていたのにあっと言う間に曇が空を覆って、少し雨が風に乗ってとんできます。御嶽山はすぐに雲に隠れてしまいましたが、それでも乗鞍岳や中央アルプス、開田高原はよく見えました。田中さんももちろんこの絶景にいたく感動。

 山から下りる車のなかで、「これはものすごいものだ。三岳どころか木曽町全体でも最大の観光の目玉になる。御嶽山と開田と結べば、軽井沢や箱根にひけを取らない国際観光都市になれるぞ」と二人ともいたく興奮して話がはずみました。

 三岳地区の政策をつくるにあたって案の段階で、田中さんが倉澤氏に見ていただいたところ、「倉越高原に光をあてたのは、田中さんあんたが始めてだ」と大変よろこばれ、さらにいくつかの点について貴重な助言をいただき、発表した政策のなかに生かしました。

 三岳向け政策は、「御嶽山と倉越高原の観光を柱に、元気な三岳をめざします」とし、畜産やその他の農業、三岳村特有の石工業も観光と結んだ振興策を提起しました。

開田高原

 開田高原は、開田小学校校歌に

「御嶽(おやま)のすその ひろのはら

風がうたうよ 瀬がうたう」

とうたわれているように、木曽谷というイメージから「山と谷」の木曽と考えてきた人には想像もできない広々とした高原の村です。西野地区には白菜畑の中に直線コースで一キロにおよぶ道もあります。

 地蔵峠から見る山々の上にそびえる御嶽山、木曽馬牧場の馬の背ごしに見る御嶽山、広大な白菜畑から見る御嶽山、集落の軒端から見る御嶽山。振り返れば美しい御嶽山が見え、高原の農村のたたずまいは都会に住む人々をさそって、春から秋にかけては、いつ行っても観光客が歩いています。

 開田高原は観光だけではありません。農業・特に御嶽白菜は観光にひけをとらない販売額に達しています。

 開田高原向け政策は、「観光と農業を柱にした元気な開田高原をめざします」として、スポーツ施設や温泉宿泊施設、農家宿泊や農家レストラン、などを複合的に整備して、中期滞在型の通年観光をめすことや、木曽馬の保護と木曽馬を活用したホースセラピーの施設の提案。御嶽白菜、開田そば、淡水魚の養殖など観光と結んだ振興をうちだしました。

 「農家宿泊」や「農家レストラン」はヨーロッパの農村にはありますが、日本では未開拓の分野です。田中さんは、開田でこそ条件がある、とたいへん乗り気で提起しました。

旧日義村

 旧日義村の木曽駒高原は、すぐ目の前に中央アルプス木曽駒ケ岳がそびえて、森林を生かした公園と整備された美しい文化公園がいやしの空間をつくっています。

 ここは、伊那谷側の駒ヶ根市の菅の台を思わせる位置にありますが、国道十九号線から数分の場所という地の利を得て、三岳村や開田村をしのぐ観光客が訪れています。

 また、木曽義仲が育ち、旗あげをした場所など史跡や街道文化・伝統を誇る村です。

 日義の課題は観光にとどまるものではありません。二月に開通する権兵衛トンネルの木曽側の出口にあたり、中央道伊那インターから三十分以内の場所、国道十九号線ぞいとしては、比較的平な地形にあり、今後もっとも開ける可能性のある場所です。

 田中さんは、いまでも虫食い的な宅地開発などで、救急車も消防車も通れない村道のある住宅地もあって、計画的な町づくりは急務の地域と強調していました。他の二村とちがって、住宅地らしい要求もあります。

 日義向け政策は「木曽町の中心市街地の一角として、発展する日義地区の計画的な整備」を柱に、観光や農業とともに、唯一人口が増えている地域にふさわしく、子育て支援や若者定住住宅、医療・介護の要求に応えるものをうちだしました。

旧木曽福島町

 木曽福島のみなさんには、地域向けというより、全体の町づくりの方向を訴えました。

観光を柱に、豊かな産業、元気な町を

御嶽山、倉越高原、木曽駒高原、開田高原、木曽川などの豊かな自然と街道文化や道祖神などの史跡、温泉など旧四町村の資源を一体として活用し、日本のふるさととして、全国から人が訪れる地域づくりをめざします。

権兵衛トンネルの開通という新しい条件を生かして、木曽ブランドを発展させて新しい木曽町の未来を築きます。中心市街地活性化事業をはじめ、観光と結んだ地場産業や農業の振興をはかり、新たな雇用の創出をめざします。

くらしのよりどころとなる温かい町政をすすめます。

福祉の水準を維持し、お年寄り、障害者が安心して暮らせる町、子育てしやすい町づくりをすすめます。

くらしを支える交通対策をすすめます。

暮らしを支える交通対策

 交通対策は、四町村どこへ行っても出された切実な共通の要求でした。

買い物にも行けない。医者にも行けない。日常生活で交通不便なところで本当に難儀をしている。雪がふったらどうしよう。という切実な訴えがいたるところで聞かれました。

 田中さんは、出陣のあいさつでも、街頭からも、暮らしを支える交通対策の強化を政策の柱の一つとして訴えてきました。

出前町長室を地域ごとに開きます

 旧町村単位に地域自治組織や将来計画委員会(仮称)をつくり、その地域にかかわる問題や将来の町づくりに、みなさんの意見やアイデアを反映させ、協働の町づくりをすすめます。各地域で、出前町長室を開いて、みなさんの声を直接お聞きして、新しい町づくりをすすめます。

 この「出前町長室」は村部の有権者のなかから、歓迎の声が上がりました。

悪口以外に言うことなし  相手陣営の論戦

 相手の磯尾派は、とにかく「田中じゃだめだ」と言わなければ自分の立候補の大義名分が立たないが、田中候補の実績・政策・人柄では文句のつけようがない。まともな政策論争では太刀打ちできません。そこでもっぱら悪口を言うが、どの悪口も一週間ともたない。次から次へと日替わりメニューの新しい悪口が製造されました。

共産党じゃだめだ。

 これは一番初めにだされたもの。しかし、磯尾派の内部からも、「共産党つぶせというがつぶした後の展望が見えない」と批判の声もあって、一週間持ちませんでした。

磯尾は元県の職員だった、県政にパイプがある

 長野県政に大きな期待が集まっている時ならいざ知らず、これも不発。

共産党では、国・県からお金がこない。

 田中町政の七年間の実績を見れば、ウソだということは誰の目にもあきらか。

 必ずこう言ってくるだろう、と事前につくったきれいなパンフが反論の力になりました。

共産党町政もすでに七年、あと一期で十一年は長すぎる

 日義・開田・三岳の人からみれば田中候補はまったくの新人。こんな話は誰も相手にせず。

バリバリの保守が共産党をやるのはけしからん

 中攻撃で何を言っても当たらない。磯尾選対のある幹部は、「田中氏がなにか(不始末を)しでかしてくれないかなあ」とため息をもらしていたそうです。

 いよいよあたまに来たのか、「共産党じゃだめだ」が通用しなくなったら、「田中をかついでいるものがけしからん」と、ごていねいに二回もビラにして、選対幹部の工場の労働者を企業ぐるみで動員して全戸に配りました。

 選挙告示の直前の、磯尾派のビラには次のように書かれました。「問題は保守系を自負する人が共産党と手を結ぶやり方にある」別のビラには、「国政レベルで保守派として貢献してきた人たちが、町のレベルでは、基本的に主義が異なる道を選んでいることである。私たちは、このような無分別な人と一線を引いている」自民党員が田中を推すのは無分別だと言うわけです。

 いま国民は日本共産党のことを、普通の政党だと思っています。それどころか、町長選挙の対話のなかでも、今回の総選挙で自民党を勝たせすぎたと、不安の声をいくつか聞きました。

 反共を言えばみんな田中支持から離れて、相手が共産党なら絶対勝てると考えたが、思い通りにならない。もはや八つ当たりの心境の表明のビラでありました。

党派をこえた共同が勝利の力

 今回の町長選挙は、相手陣営も認めるとおり、直前の衆議院選挙では自民党候補などの選対の木曽谷の中心になったみなさんが、「町長は田中だ」と私たちと心を一つにしてがんばりました。

 田中支持の旧木曽福島の町議のみなさんに集まっていただいたとき、「田中は共産党」ということで疑問の意見もありましたが、木曽福島の保守を代表するような選対幹部が「新しい木曽町の出発の大事な選挙だ。党派がどうのなどと言っている時期ではない」と説得していました。

また、元開田村長の青樹操氏からも、「今回は、新しい木曽町の出発の大事なときです。

 将来の木曽町の行末を考えても党派がどうかなどではなく実績と政策・人柄で選ぶべきときではないでしょうか。田中勝己さんこそ最適の人物であると思います」という一文を寄せていただきました。

 後援会長の浦澤英一氏は「木曽町の将来の基盤をつくる、見通しのある理念と政策を持ち、実行力があって、町民誰ともうちとけて話ができる気さくな人柄はみんなが認めています。」と語っています。

 それぞれの町村の要職を歴任された方々の見識を示したものでした。 

 ある選対幹部は、田中事務所から公明党員と思われる人に、「この間の選挙(総選挙)では選挙区は自民党、比例は公明党という話だった。私も自民党の関係者に比例は公明党と書くように説得したが、抵抗もあってなかなか思うようにはゆかなかった。しかたなく、自分の家族や親戚に頼み込んで公明党と書いてもらったんだ。今度は私の頼みを聞いて田中勝己をやってくれ」と一生懸命説得していました。

 田中さんの誰もわけへだてしない人柄と実績は、町議八期、七年七ヶ月の町政をつうじて、党派を超えて多くの人たちが「この人なら安心しておつきあいができ、安心してまかせられる」という信頼を肌で感じてきていました。

 その一方で、磯尾陣営が「反共」という自分の「主義」で住民を色分けし、気にいらない者は排除するという、異質な人間であることが浮き彫りになって、町民の眼には、合併した四つの町村をまとめてゆくにふさわしい人物ではない、とうつったのでしょう。

草の根のたたかい

 十月二十日「田中勝己励ます会」五○○人、十一月二十日「決起集会」六○○人集まりました。田中事務所にいただけでは、どこからこんなに集まってくるのかわかりません。

 事前のつかみはせいぜい三百数十人です。集会当日は始まる三○分前にはほぼ満席。

 これを支えていたのが、草の根の組織です。選対の会議には、木曽福島のすべての集落から地区代表が七○人も集まります。このみなさんが地元へもどって、ニュースを届け、全戸配布のビラを受け持って支持を固めました。なかには、自分の地域だけでなく、三岳、開田、日義へ出かけて田中候補への支持を広げる活動を展開する方もでてきました。

 三岳のある選対役員の方は、自分のつながりは自民党支持層が中心なので、「共産党」への疑問が出されたとき説明に苦労しているようでしたが、何回も何回も事務所にビラやパンフをとりにきて、熱心に訪問して歩きました。

開田村では、町議の候補者が自分の選挙の決起集会に田中候補のあいさつを求めてくるということもありました。開田で二回、三岳で一回小集会を開くことができました。

 女性の集会も七○人の参加で成功しました。

 このような草の根の活動こそ、反共攻撃を打ち破る大きな力だったのです。

 しかし、告示直前の対話の報告では、三岳、開田地区では過半数を超える有権者がまだ誰に投票するか決めていないということが明らかになりました。

 全県から支援を集中して、告示後二度にわたってていねいなビラの全戸配布活動をすすめるなかで有権者の反応がみるみる変わってきました。「この辺はみんな田中だよ」という集落もでてきました。

 このような草の根の献身的な活動と、全県的な支援が勝利の支えになったのです。

町議選 党組織空白をなくすことこそ最大の教訓

 町長選挙と同時に行われた町議選挙では、上田とめ子候補が最高点、黒田やすお候補は惜しくも次点にとどまりました。

 「困ったときはとめ子さん」という言葉がぴったりのような上田候補の実績とこの間営々として積み重ねてきた党支部の活動がトップ当選を勝ち取った原動力です。

 黒田候補は党派を超えて結集した「三岳を愛する会」のみなさんと力を合わせて、前回票を三倍以上にする善戦健闘でしたが、地元の三岳でせり勝てなかったことと、合併前の旧町村を越えて支持を集める困難さがもろに出た選挙となってしまいました。

 町議選で前進するためには、地元三岳はもちろんのこと、開田、日義に党支部の確立が急いで求められています。

全国を励ました勝利

 田中勝己候補の当選は、単に山の中の小さな町の選挙結果にとどまらず、先の総選挙で小泉圧勝という選挙結果に大きな不安をもっている、全国の人々を励ますものです。

やられっぱなしではないのだ。元気をだして、民主的な政治をめざしてたたかって行こうというみなさんに大きな希望と確信を与えるものです。

私たちは引き続き、住民が主人公の政治をめざしてがんばります。

(2005/12)

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