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県民世論の変化をどうみるか

有賀 光良 

変わりつつある県民意識

 二○○○年十月の知事選挙において、長野県民は数千の団体の推薦を受け、磐石の体制を誇っていた候補ではなく、田中康夫氏を選択しました。

 長年にわたって続けられてきた、官僚県政に明確に「ノー」という判断を突きつけたのです。そしてそれにとどまらず、一部の有力者の言いなりや団体で決めたことに従うのではなく、一人ひとりが自分の判断で投票し、「県民一人一人が立ち上がれば政治は変えられる」ということを実感した選挙でした。

 この知事選をきっかけにした県民の意識の変化は、後戻りできない画期をなすものです。

 田中知事の「脱ダム宣言」は多くの県民から受け入れられ、公共事業の中にある無駄なものへの批判など、県政ばかりでなく国政や市町村政においても、「税金の使い方」についても厳しい目をむけるようになってきました。

 数千の団体の推薦を受けた現職が落選した松本市長選挙に見られるように、このような県民意識の変化は、市町村長選挙にも現れて、いままでのような団体締め付け選挙や有力者が名を連ねた選挙のやり方は通用しなくなってきています。

 二○○二年九月の出直し知事選挙においても、自分たちが直接選んだ知事が、公共事業見直しという自らの公約を守り、実行しているさなかに、あくまでダムに固執して「不信任」という理不尽なやり方に県民の怒りが集中して、大差で田中知事の再選となりました。

 不信任勢力は、田中知事を選んだ県民の意識の変化が見えなかったのです。

 家庭でも地域でも職場でも、県政のことが気軽に話題にのぼり、一人ひとりが県政にたいして意見を言うようになって、本物の県政改革を期待するようになってきています。

 ですから県民は、田中知事を支持した・しないにかかわらず、「県政改革」からそれた知事の言動には、きびしい批判的な意見をもっています。

 このような県民世論を背景に、県の予算が公共事業偏重から、教育・福祉にシフトして県の借金も減り始め、教育費が県の予算のトップになり、三○人学級、障害者対策の充実や託幼老所など教育福祉を重視し、大型公共事業から生活密着型の身近な公共事業への転換など県政改革が前進しはじめてきています。

合併の論議のなかで 

県政とともに、市町村政においてもここ数年の間の地方政治に向かう住民の意識の変化は目を見張るものがあります。

 平成の大合併といわれている、今回の国による押し付け合併のなかで、昭和の大合併との決定的な違いは、合併するかどうかを住民意向調査や住民投票など、住民の直接参加で決めている自治体が県下各地に広がってきていることです。

 町村長などが、はじめは合併推進の立場であったが、住民投票や住民意向調査の結果で、合併をとりやめたところもいくつかあります。住民投票を求める運動も、県下各地で取り組まれてきました。

 自分たちの住む町や村の形を自分たち自身で決める、という文字どおりの住民自治の前進のなかから生み出されてきた新しい民主的な政治のルールのひろがりです。

 合併押し付けという国の方針に逆らって、「合併しない・自立の道」を選択した自治体も県下全域にあります。合併問題では長野県下各地で、憲法の地方自治の本旨と言われている、住民自治と団体自治が文字どおり発揮されています。

 これらはいずれも今日の長野県民の住民自治意識の前進であり、社会の発展・民主主義の成長の大きな流れを示すものです。

 また長野県政が他県のような合併の旗ふりをやっていないことは、県政の民主的な側面の現れとして評価できますし、住民自治の前進を励ますものです。

 このような住民の意識の変化が、自動的に生まれてくるものではありません。

 新潟中越地震の災害に際して、長野県からも大勢のボランテアがかけつけました。日本共産党長野県委員会関係の支援活動をみても、昨年末までに募金六百十五万円、ボランテア実数百三十二人、支援物資はりんご五百箱など八百箱にのぼります。

 近年、このようなボランテアだけでなく、三○人学級を求めるねばり強い取り組みや無駄で危険なダム建設に反対の運動、自然や環境を守る運動など、住民の側から行政にたいする要求運動や提案をする自主的な県民の取り組みが非常に増えてきています。昨年十二月議会で、県の教育長の再任が否決されたとき、わずか二日の間に四一○○人をこえる署名を集めて、深夜の議会を傍聴したお母さんたちなど、そのエネルギーは大変なものがありました。

 子育てや老人福祉、環境を守るなどのNPO(非営利組織)も県下のあちこちに生まれています。

 現在、日本共産党県議団六人中女性は四人います。日本共産党県議団が議員会館(県議の宿舎)で会議を開いたとき、この建物はトイレや浴室など女性が県議になることをまったく想定していない造りであることが話題になりました。この建物を設計した人は、女性が県議に出てきて使うことなど、思いもよらなかったことでしょう。

 県下各地の日本共産党員が、「しんぶん赤旗」を配達・集金をして、ビラを配って、有権者との対話をすすめる活動を、永年にわたって営々として積み重ねてきたことが、有権者の変化を作り出す大きな力になっています。

 このような県民の多面的な活動・取り組みや日本共産党の奮闘をつうじて、「人権感覚」や「主権者意識」をもった新しい社会の担い手が確実に育てられつつあることを実感します。

 「歌声よおこれ」

 かつて宮本百合子は、終戦直後の一九四六年一月に発表した「歌声よおこれ」という一文のなかで、戦争が終わって、特高警察が国民の自由を抑圧していた天皇専制の圧政から解き放たれにもかかわらず「若々しい、喜びに満ちた潮鳴りとして、私たちの実感の上に押しよせてこないようなところがある」とのべて、その理由として、「なぜなら、旧体制の残る力は、これを最後の機会として、これまで民衆の精神にほどこしていた目隠しの布が落ちきらぬうち、せいぜい開かれた民衆の視線がまだ事象の一部しか瞥見(べっけん)していないうちに、なんとかして自分の足場を他にうつし、あるいは片目だけ開いた人間の大群衆を、処置に便宜な荒野の方へ導こうと、意識して社会的判断の混乱をくわだてているのであるから。」と書いています。

 さらに、こういう時に何をなすべきかについて、「民主なる文学ということは、私たち一人一人が、社会と自分との歴史のより事理にかなった発展のために献身し、世界歴史の必然的な働きをごまかすことなく映しかえして生きてゆくその歌声という以外の意味ではないと思う。

 そして、初めはなんとなく弱く、あるいは数も少ないその歌声が、やがてもっと多くの、まったく新しい社会各面の人々の声々を誘いだし、その各様の発声を練磨し、諸音正しく思いを披瀝し、新しい日本の豊富にして雄大な人民の合唱としてゆかなければならない」

 とても六十年前の文章とは思えず、なんと今の長野県にピッタリではありませんか。

 「民主なる文学」と言っていますが、文学にとどまらず、県民の意識の変化に応えられる私たちの運動の展開をいまなお呼びかけています。

 とりわけ現在、自民・公明政権による、平和、教育、福祉、暮らしや地方自治にいたるまで、憲法にもとづく民主的な考えや仕組みのじゅうりん・憲法破壊とでもいう事態が「すすんで、その帰結としての憲法改悪も自民・公明・民主各党の日程にのぼっています。

 平和を願い「人権感覚」と「主権者意識」の広がりという国民の意識の変化はこのような改憲の策動を打ち敗れるエネルギー十分にもっています。このエネルギーに依拠した各分野の運動の大きな発展が求められています。

 いくら県民意識の発展があっても日本共産党が自動的に前進するものではありません。このような情勢が求める実力を身につける独自の努力を強めることが急がれています。

 たしかに二○○二年の知事選を一つのきっかけに県民意識に大きな変化がおこりましが、県民意識の変化や県政改革の実績から目をそらすような報道が毎日くりかえされています。これに対抗できる「しんぶん赤旗」や「民主長野」など、民主的・革新的報道の陣地を大 きく広げることが特別重要になっています。

 住民自治の前進のなかで山口村の越県合併を考える

 昨年末は、山口村の越県合併をめぐってさまざまな意見が交わされました。知事による提案がなされず、県議会において議員提案による議会決議があり、新年になって知事がこの議会決議を尊重して国に合併申請をして、総務省がこれを受理したことにより一応の決着となりました。

 山口村をめぐる問題も、このような住民自治の前進という文脈のなかでとらえるべき問題です。

 昭和の大合併の時は、県当局と県議会が権力的に越県合併をおさえこんでしまいました。当時の神坂村民には住民投票とか住民意向調査などという、天下に向かって「民意はこれだ」という手段がありませんでした。

 そしてこのような越県合併つぶしが行われたとき、県民的な批判の声はほとんど起きませんでした。(当時日本共産党は県議会に議席がありませんでした。)

 昨年十二月県議会で青山出納長は山口村に関連して「昭和の合併と平成の合併の大きな違いは、住民の意思が尊重されるようになったこと」と明確に答弁をしています。

 たとえば、野沢温泉村では、住民投票の結果合併せず「自立」を選択しました。穂高町では、住民投票の結果「合併」を選択しました。山口村では、合併反対の村民も納得した「投票方式による意向調査」がおこなわれて、合併が多数になりました。

 一部の人から、山口村村民の選択を認めないことが主張されていますが、憲法第十四条には「すべて国民は、法のもとに平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と書かれています。

 野沢温泉村の人や穂高町の人たちには、自分の村や町のあるべき形を決める権利があるが、山口村の人たちには「越県合併だから」「馬籠があるから」という理由で、自分たちで決める権利を認めない、となれば、「法のもとに平等」という憲法の規定を犯し、重大な人権侵害になるのではないでしょうか。

 日本共産党は、もともと国による押し付け合併には反対です。山口村の合併にも反対です。しかし、村民の意思が決まれば、これを尊重することと、この問題を政争の具してはならないという立場を貫いてきました。

 そして、いろいろな経過はありましたが、基本的にはこの線にそって落ち着くべきところに落ち着いたものと思います。

 日本共産党県議団は、山口村以外の市町村についても、地元の党組織としては合併に反対の運動を展開してきた経過があったとしても、いったん住民の意思が賛成ときまれば、県議会の段階では、この住民の意思を尊重して賛成します。「住民こそ主人公」という立場からすればこれは当然の対応です。

 昨年十一月四日の県民世論調査によれば、「島崎藤村や馬籠にこだわりを感じる」人は四五・五%ありましたが、合併にあたって「もっとも尊重されるべきは山口村村民」であると答えた人は七八%ありました。これが長野県の民主主義の到達点です。

 今回山口村の合併にあたって、村民の多数の意思が合併賛成と確認された後になっても、知事や県議会や県民世論にたよって、いわば外圧で村民の意思と異なる「合併阻止」を期待していた人もいましたが、合併に賛成であれ、反対であれ「住民自ら決める」住民自治の前進という歴史の流れにそむくことは成功しませんでした。

「夜明け前」と馬籠をめぐって

 世界恐慌のまっただ中で国民は不況にあえいでいた昭和二年、日本は明治維新60周年を迎えていました。明治天皇は「明治大帝」とあがめられ、この年から十一月三日を「明治節」として制定し、明治神宮には百万人近い人々が参拝するなど、国をあげて明治維新と明治天皇万歳の大キャンペーンが繰り広げられていました。

 長野県下でもこのキャンペーンに呼応して、明治天皇が立ち寄ったところは、「明治天皇お休み処」とか、塩尻峠では、明治天皇がここに立って諏訪湖周辺の景色をながめられたので「御野立公園」、下諏訪町には、明治天皇が諏訪湖に向かって石を投げたので「石投げ場」などと明治天皇ゆかりの場所が次々と名所旧跡扱いされ立派な石碑が建てられ、いまなお残っているところがいくつもあります。

 島崎藤村の小説「夜明け前」はこういう時期に書き始められます。

 「夜明け前」の最初の部分で、青山半蔵が多感な青年時代に尾張藩の禁制を破って木材の討伐で捕まった村民の姿をのぞき見している場面があります。

 尾張藩の時代には、五木(ごぼく)の育っている留山(とめやま)以外の明山(あきやま)と呼ばれていた山へは、五木の伐採の禁を犯さない限り、入りあい権が認められていました。村の人々は山に入って、飼料や肥料、薪炭の確保をはじめ、焼畑を行って生計を立ててきました。(五木とは、ひのき、さわら、ねずこ、あすなろ、こうやまき)

 土地はすべて藩領であるという封建制度がなくなったとき、明治政府によって「旧藩有地はすべて国有地」が厳格に適用されて、明山への立ち入りまでが禁止されて、山地以外に利用すべき土地のない木曽谷山村で、山林に依拠した生活がほとんどできなくなってしまったのです。

 馬籠村庄屋(戸長)の島崎正樹(小説「夜明け前」では主人公の青山半蔵)は木曾谷三十三ケ村の代表として、筑摩県に歎願書を書いています。歎願書には「海辺の人たちが魚や塩などの海産物を採って生活しているように、山の中に住む人たちが木や草を利用して生きるのは当然で、海に利用制限がないように、山村民にも山林の利用を自由にしてほしい」とのべて明山の完全解放を求めています。

 今日のように憲法に保障された民主的な地方自治制度が確立していなかった中で、当時の筑摩県権令永山盛輝によって、島崎正樹は木曽の山林解放運動の首謀者と見られて、戸長を罷免されてしまいます。

 尾張藩にとって木曽の領地は農民の貢租による収入よりも、森林の伐採からの収入の方大事でした。そこで日本中の他藩と比べても厳しい「木一本首一つ」という過酷な山林の利用制限をしてきたのです。木曽谷住民はこのような尾張藩の山林支配からの解放を明治維新に期待しましたが、木曽の山林は皇室御料林に召し上げられてしまいます。しかも全国各地にある国有林や皇室御料林などとちがって、木曽の山林はあげて「世伝御料地」という「神聖ニシテ侵スベカラザル」天皇直属の財産と定められて、住民は指一本もふれることを許されなくなってしまったのです。

 島崎藤村は小説「夜明け前」のなかで「新しい木曽谷の統治者として来た本山盛徳は・・ただただ旧尾州領の山地を官有にする功名の一方にのみ心を向けて、山林と住民の生活を切り離してしまった。」と明治政府の官僚の功名心によって木曽谷住民の苦しみがもたらされたことをするどく告発しています。(「本山盛徳」・永山盛輝のこと)

 こうして、木曽谷住民が、明治維新に期待した山林解放は裏切られて、藩政時代よりもっと過酷な条件のもとに暮らすことをよぎなくされてしまいました。(参考・章文館 山下千一著「木曽山林物語」)

 一方、青山半蔵が生涯をかけて信仰してきた求道的な「神道」は、維新の中でこそおおいに生かされてゆくものとして期待をしますが、それは明治初期の天皇制の支配体制確立の過程のなかで、天皇制イデオロギーの支柱としての国家神道という立場からみれば、うとましいものとして扱われるものに次第になってゆきます。青山半蔵は、期待した維新政府・天皇制政府による経済的(山林解放)・思想的(神道)の二重の破綻によって行きづまり、発狂して座敷牢で死を迎えます。島崎藤村は、まさに朝野(ちょうや)をあげた「明治大帝」賛美の大キャンペーンのまっただなかで、それとまったく対極の「明治維新の評価」を描くという、今考えても驚くべきテーマの小説「夜明け前」をこのころから書き始めています。

 かもそれは、声高に「反政府」「反天皇」を叫んでいるわけではなく、「木曽路はすべて山の中である」という書き出しで、四季折々の木曽谷の風景の中にしっかり溶け込んで暮らしている人々を、風景画の画集でも見るおもむきで描かれています。

 大名や公家、武士の立場からでなく、木曽谷の住民の立場から、当時の言葉で言えば草莽(そうもう)から、今風に言えば「草の根」から明治維新を描いたものです。木曽谷から時代変革期を見据えたスケールの大きな国民的小説になっています。

 この小説が書かれて八○年近くたった今日、「明治大帝」などとあがめたてまつる人はほとんど見かけませんが、「夜明け前」はいまなお国民に親しまれ、読み継がれてきています。

 藤村の描く木曽谷の姿に郷愁をおぼえるとともに、天皇制政府によって苦しめられてきた自分たちや、自分たちの父祖の時代に共感するものがあったからではないでしょうか。

 島崎藤村の文学の大きな生命力を感じさせるものです。島崎藤村の三男の島崎翁助は、戦前プロレタリア美術運動に参加し、「戦旗」に挿絵を描くなどして検挙されています。また姪の島崎こま子は、侵略戦争に命をかけて反対していた日本共産党にたいする昭和三年の大弾圧三・一五事件で検挙された人々にたいする差し入れなど、当時としては大変な勇気が求められた弾圧犠牲者の救援活動に献身し、戦後は郷里の木曽谷へ帰って、日本共産党妻籠細胞で活動をしています。

 作家の井上ひさしは、「『夜明け前』は一種の『プロレタリア文学』ではないかと感じられた」と述べて、このような藤村をとりまく環境にふれています。(集英社「座談会・昭和文学史二」)

 島崎藤村も「夜明け前」ももっと研究されるべき奥深い内容をもっています。このような小説の舞台となった「馬籠」は信州の宝であることはまちがいありませんしこのことにたいする長野県人の思いは他県の人には理解できないほどの強いものがあります。

 しかし「夜明け前」に描かれたテーマと骨太なスケールの大きさ、そして描かれたその時代、「夜明け前」が執筆された時代、そして今日の住民自治の前進に至るまでの歴史の大きな流れを見る時、「馬籠を岐阜県にやりたくない」ということに固執した議論は、島崎藤村や小説「夜明け前」をあまりにも小なものにしてしまうのではないでしょうか。  

 多くの県民の皆さんに「夜明け前」をこの機会にあらためて読むことをお勧めします。

(『民主長野』2005年1月号掲載)

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