=日本共産党の教育提言= 県民的討論を呼びかけます
県民に開かれた学校づくりを長野県の教育改革の柱に
はじめに
今日の日本の社会は、人間を使い捨てにするような労働条件で働かされ、サービス残業や一方的なリストラの横行で一家だんらんが奪われてきていること、大人
社会のゆがみや、自民・公明政権のすすめてきている教育制度のゆがみのなかで、児童虐待や少年犯罪の多発など、子どもをめぐってかつては考えられなかった
ような深刻な事態がすすんでいます。
いま、生き方を見つけられない若者が増えています。学校でもきちんと教えられていない、し
かも労働運動の後退の中で、働く者の権利意識が薄れて、職場で非人間的な扱いを受けると、自分が否定されたと感じ、人間という尊厳を守って生きてゆけない
青年が増えています。若者が未来ある人間として、大切にされるどころか、利潤のために使い捨てにすることが横行しているなかで、二十代の青年の死亡原因の
トップは自殺と報道されています。
このような社会のあり方をただしてゆくこととともに、人間として生きる力を育てる教育がますます重要になっています。
国際社会の動きや平和・政治・経済を見る目、環境や一人ひとりの人権を尊重する社会を営むに必要な基礎知識、この中でどう生きるかという基本的な認識・能
力を身につけることは、すべての子どもにとって必要なことであって、できる子、あるいは関心のある子だけがやればいいという問題ではありません。
長野県下の高校でも不登校や高校中退、部活における体罰の横行などがつぎつぎに起きています。高校教育にたいする県民の要求も多岐にわたり、切実さも増してきています。
このような中で、今回長野県高校改革プラン検討委員会より「中間まとめ」(案)が発表されました。
日本共産党長野県委員会は、この「中間まとめ」(案)が本当に県民の願いに応えたものであるものなのか、これに対する見解を明らかにするとともに、それにとどまらず、長野県の教育改革の方向についての提言をここに発表します。
高校改革プラン中間まとめ(案)について
この「中間まとめ」(案)は、最近の潮流である「新自由主義」の考えに貫かれており、県民の期待する高校改革とはかけ離れたところへ、長野県の高校教育をもってゆこうとしていることが懸念されます。
新自由主義の特徴は、一口にいえば、すべてのもの(教育といえども)を市場原理にまかせよということと規制緩和・自由化です。その考えのなかには、世の中
はすべて「勝ち組」と「負け組」からなっている。自由競争なのだから「負け組」になるのはその人の自己責任である、という独特の理論があります。
県民の多くは、平等こそ子どもの世界や教育の場では当然のものと思っているでしょう。そこへ差別と選別は当然である、という考えが公然ともちこまれようとしています。
多様なニーズに応える」という問題
今回の「高校改革プラン検討委員会」の設置にあたって、県教委より「検討していただきたい内容」の第一に「魅力ある高校のあり方について」として「多様化する生徒のニーズに対応するさまざまなタイプの高校の在り方は、どうあるべきか」が諮問されています。
「中間まとめ」(案)では1ページに「このような社会の変化を背景に、人々の生き方や価値観の多様化がすすみ、高校生の学ぶ意欲、目的意識、興味・関心、進路希望等もますます多様になってきている。
こうした社会の急激な変化にそった、魅力ある高校づくりや新しいタイプの学校の設置など個性あふれる学校づくりをめざして、県民のニーズに応える選択を可
能とする教育の実現に努める必要がある。」と述べ、2ページには「すべての生徒が学校に魅力を感じなおかつ生徒一人ひとりが自分の個性を充分いかすことが
できる高校教育をめざし」と書かれています。学校選択の自由が保障されるということはなんと魅力のある言葉でしょう。
しかし、
その「自由」の中身はどうでしょうか。新自由主義の考えでは、本来すべての人に「権利として保障されるべき」教育に市場原理がもちこまれます。学校が、生
徒の興味・関心に応える「商品」として扱われ、多様な特色ある枠組みの学校が用意されます。お金のある家庭の子どもはたとえ少々遠くても通うことができま
す。塾にもお金がかけられます。成績のいい人、地理的な条件に恵まれている人はいい商品の教育を選べます。
一方、そういう商品を選べない人は、「学校を選べる自由があるのだから、選ばない(選べない)のは本人の自己責任」ということになってしまいます。
教育はコンビニで、「おにぎりがいいか、サンドイッチがいいのか」を選ぶのとは訳がちがいます。
たとえ好き、きらいということがあり、不得手な科目があっても、必要なことはきちんと教えることこそ教育の本来のあり方ではないでしょうか。
「中間まとめ」(案)には、どこを読んでも、いま県民が深いところから求めている、教育にたいする願いに応える改革の展望は何も示されていません。
あまりにも教育が語られていない「改革」議論に終始しているようにみえます。
新しいタイプの学校づくり
「中間まとめ」(案)では新しいタイプの学校づくりとして、総合学科および多部制・単位制高校の設置、総合選択制高校、向学心育成高校、総合科学技術高校をあげて、またコンピューターのネットワークを活用した、e―Learning(イーラーニング)を提案しています。
そして、このままの体制では生徒の多様なニーズに応えるには大きな限界があるとして、高校間連携 ジョイント高校、高大連携・異種学校間連携の促進や民間企業で働いても単位認定する単位振り替え制度などを提起しています。
東京都政のモデルでは長野県にはなじまない
これらは別に目新しいものでもなく、すでに東京都が「教育改革」という名前ですすめているものばかりです。
東京都の高校教育改革のメニューは、まず進学指導重点校に四校、進学指導重点準備校に三校が指定されて、このエリート高校以外はエンカレッジスクール、単
位制高校、進学重視型単位制高校、総合学科高校、科学技術高校、進学型商業高校、総合芸術高校、単位制専門高校、東京版デュアルシステム(民間企業で給料
をもらいながら働いた時間を実習の授業を受けたとみなして単位認定をする)、産業高校、中高一貫校、昼夜間定時制(単位制・多部制高校)、とさながらスー
パーマーケットのように特色ある学校のメニューがずらりと並んでいます。
もちろんこれらの高校の特色の一つひとつのもっている機能と役割をすべて否定しようというものではありません。今日の教育のひずみのなかで、それなりの役割を果たしている学校も少なからずあります。
しかし、私立高校が五割に達し、平坦な地形と交通網が発達している東京都のようなやり方を、長野県において無批判に模倣するやり方が「改革」でしょうか。
しかも、このような高校「改革」の結果、何がもたらされているのかが問題です。
東京都内のすべての都立高校が一覧表で序列化されるようになりました。
学校は成績評価を競わされ、ランクが全都的に一目瞭然となりました。序列の頂点にある、進学指導重点校と言えども都教委によって成績(有名大学の合格率)
で評価されて、成績が悪ければ重点準備校にランクを下げられることになりました。このことは、毎年の学校予算に直接ひびきます。
成績が悪い学校はお客(生徒)が集まりません。一方に希望者が殺到する学校もあれば、入学者ゼロとか一人、五人という高校もあったそうです。
ランクづけは単なる風評の話ではありません。「学校評価」ということが強調されて、学校内では、教職員にたいする締め付け、統制が異常に強められてきました。
業績評価制度が導入されている都政のもとでは、このことは都教委による校長にたいする業績評価・査定の指標になるのです。学校も生徒集めに必死になり、学
校間のものすごい競争が起きています。どうやって特色ある学校を売り込んで生徒を集めるか、都立高校の校長・教頭が「営業マンのようだ」といわれている学
校もあります。
しかも重要なことは、受験競争がいっそう激しくなっていること、生徒の興味・関心に応える学校選択の自由のなかでも、不登校や高校中退は少しもなくならないことです。
財界の求めるもの
一九九五年に経団連の発表した「新時代の日本的経営」のなかで、これからの雇用関係をひとにぎりのエリートと少しのプロフェッショナル、そしていつでも切り捨てられる大多数の労働者という構造に切り替えることを提案しています。
ここには、人間の平等という考えはありません。企業の論理で労働者を選別する不平等を当然のものとする考えです。一部のエリートを除いて圧倒的多数の労働者はマニュアルどおりの仕事をやっていればいい。そういう者に余計な教育は必要ない、という考えです。
こうした考えのもとに、文部科学省の学習指導要領で「個性の尊重」が強調されてきました。
「個性の尊重、それはいいことじゃないのか」と一瞬だれでも思うことでしょう。ところが、「算数のできない子は、算数ができないのが個性だ。それを無理し
て教えてはいけない」と勉強ができる・できないを固定的にとらえさせ、教育によって身につけさせる・成長発展させるということを否定するものです。
かって文部科学省の教育課程審議会のメンバーの一人は「できんものはできんままでけっこう」といいました。これはもはや文部科学省のすすめる教育が、親が子どもの教育に期待するものとは異質の方向に動いてきていることを示すものです。
これが、日本中ですすめられている「新自由主義に則った教育改革」といわれるものです。
「長野県高校改革プラン検討委員会」の議論のなかで、ある委員は「高等学校以上の教育につきましては、生徒それぞれの能力、資質がはっきりわかってきます
ので、平等から公平という考えで、個々の能力や資質の点で分けていく必要があるのではないかと思います。教育全体にたいして、平等でゆくのはどうなのかと
考えております。」「前回、私は義務教育までは徒競走であり、高校以上はレース、社会にでますと完全にゲームであり、勝ち組と負け組に分かれていくと申し
上げましたが、こういう考えで行くべきではないかと思います。このことは、教育について基本とするべきではないかと思います。」
当たり前の話ですが、「勝ち組」「負け組」の比率は半々ではありません。圧倒的多数の「負け組」とほんの一握りの「勝ち組」というのが世間の相場です。
「検討委員会」の論議のなかでは、かくも公然と「平等」を否定し、子どもを「勝ち組」と「負け組」に振り分け、選別することを教育の基本とすべきという議論が長野県の教育のあり方を論議する場所で行われているのです。
このときの「検討委員会」のなかでその発言にたいする反論は一人もありませんでした。
子どもの人間的な発達を正面にすえた教育ではなく、財界や大企業の求める教育改革がすすめばどうなるでしょうか。子どものときから「勝ち組」「負け組」の
差別に振り分けられ、学校も「勝ち組」「負け組」に選別される。そして、「いい学校」に行くための地域の親どうし、子どもどうしの競争、「悪い学校」へ飛
ばされないために、子どもではなく管理職の顔色をまずうかがう教師、親たちの人気とりと教育委員会の意向に従うことに汲々とする管理職などが目に見えてい
ます。
一九九八年六月、国連・子どもの権利委員会は、日本政府にたいして「極度に競争的な教育制度にさらされ、子どもたちの間
で発達障害が生じている」と特別の勧告がなされました。子どもたちの間でのいじめや暴力、引きこもり、不登校、そしてあいつぐ少年犯罪の多発など、大人社
会のゆがみの反映であるとともに、国連が指摘している極度の競争的な教育制度による発達障害のひとつとしても見てゆかなければなりません。
「検討委員会」の論議や「中間まとめ」(案)は、この勧告のめざすものとはまったく逆の方向にあります。
県民参加はきわめて希薄
「中間まとめ」(案)には「県民参加」という見出しはあっても、そこには「学校の責任」ということがくりかえし強調されていますが、肝心の県民参加についてのまともな記述はありません。県民参加は学校の責任を迫るときだけのもののようです。
新自由主義の教育論議の特徴は全国的にみても、さまざまなメニューの学校を自由に選べることは語られていますが、住民参加という言葉だけはあっても、生徒自身や教師、保護者や地域住民が主体的に参加して、みんなで作り上げてゆくという視点はきわめて希薄なものです。
学校選択は自由ですから、いやなら別のお店(学校)へどうぞ、というわけでしょうか。
いま長野県下のいくつかの高校ですすめられてきている、「三者協議会」や「開かれた学校づくり」「地域の学校をまもる取り組み」などさまざまな学校や県民の努力について一言も触れられていません。
求められる教育改革は、机上の議論から始まるのではなく、このような実際の教育現場の実践に学んでそれを発展させてゆくべきではないでしょうか。
地域高校をめぐって
地域高校の歴史は、県立の旧制中学校や高等女学校がなかった地域でも、郷土の子弟の教育のために、いくつかの村や町村などの組合立や町立などで大変な努力をして建設をして、草の根から地域の教育を支えてきたものです。
地域高校の卒業生の多くは地元に残って、現在でも地域をささえる中心的な役割をはたしています。いまでも地域の文化と心のよりどころとして地域のみなさんの温かい支援に支えられています。
九月十日小諸市で開かれた県の移動教育委員会の席上、立科町の遠山町長は「蓼科高校のことは町の問題として、地域のみなさんとともに支援してきた。いま生
徒の生き生きとした活動が地域の誇りになっている。うかがえば、一学年六学級が基本だとの話だが、地域高校をその尺度で見てほしくない。蓼科高校があるこ
とが、地域を明るくし、生徒と教師は地域の大切な家族だということをぜひ汲んでほしい」と語りました。
また、蓼科高校のPTAの人は「ふれあいを大切にし、地域に開放された学校をめざしてきました。不登校の生徒さんが入学しましたが、一日も休むことなく立派に自信をもって卒業された姿は、私たちに感動を与えてくれました」と語っています。
地域の人々から見れば、その存在意義にたいする説明責任をわざわざ学校に求めるなどということは思いもよらないことでしょう。地域にとって必要な学校です。
県の教育委員やこの検討委員会のメンバーの間から、「地域高校が必要なんていうセンチメンタルは私には理解できない」とか「歴史があるということだけであ
れば博物館にでも入れておけば良い」などという言葉が飛び出しています。県民のみなさんは、こういう発言をどう感じておられるでしょうか。
「四通学区内における特色ある学校」の問題
「中間まとめ」(案)のなかで、単位制・多部制高校と総合学科高校を各通学区に1校設置することが提案されています。検討委員会の議論のなかでは、それと
引き換えに定時制高校を廃止する、ということが取りざたされています。 さらに特色ある学校もこの通学区を単位として設置するとしています。
北信、東信、南信、中信を単位では、どんなに魅力ある高校であっても多くの生徒は自由に通学できないでしょう。いまでさえ、子どもの通学の送り迎えをして
いる、JRやバス路線から遠いところに暮らしている県民のみなさんのご苦労をかえりみない議論といわざるをえません。ニーズに応えた自由な選択という看板
とはあまりにもほど遠いものです。
問題なことは、4通学区という設定そのものについて、十分な県民的な合意が作られないまま、
当たり前のようにすすんでいることです。高校改革プランについて県民的な議論をする機会に、通学区の問題も高校入試のあり方についても、既定のこととして
扱わずに県民的な議論に付するべきです。
また定時制高校についても、かっては昼間働いて、夜学ぶ生徒がほとんどでしたが、いま
は、中学校時代に不登校だった生徒などの大事なよりどころになっています。中学校時代は学校に行けなかった生徒が、定時制高校に通うなかで、自信を取り戻
し、大学や専門学校に進学してゆく例も生まれています。一人ひとりの生徒の人生にとって大事な役割をはたしている定時制を県下四ヵ所の多部制・単位制の学
校を設置することと引き換えに統合するやり方は賛成できません。
高校再編が即座の課題か
「中間まとめ」(案)は「即座に問われるのは高校再編の具体化を検討する審議機関の設置である」とのべています。発足早々の第一回の「検討委員会」におい
て、県教委の担当職員から「『各校が主体的に改革を実施していく進め方』は、各校が競争をしながら、統廃合をすすめていくという部分を含んでおります」と
「改革の意図」について非常にわかりやすい説明がありました。
特色ある学校とか、県民への説明責任とかいろいろ言っているが、早い話が県立高校の統廃合を早くすすめたい、ということにつきるでしょう。
それでついホンネが出て「即座に問われる」などという言葉になったと思います。
県民は、高校改革について、「検討委員会」がどんな考えをもっているかこれから説明を受けて知るところです。それがいいか悪いか県民的な判断もされないうちに、再編を具体化する審議会を即座に、というやり方は大方の県民の納得を得ることは難しいでしょう。
地域に開かれた学校づくりを長野県の教育改革の柱に
長野県の教育改革は、学校統廃合や特色ある学校ではなく、地域に開かれた学校づくりを柱にすすめることを提案します。
教育は財界やお上の目線ではなく、子どもの立場から、平和で民主的な社会の担い手にふさわしく成長するという子どもの根本的な要求から出発すべきです。
子どもたちは、家庭、地域、学校がいっしょになって育てるものです。学校がいろいろなメニューを並べて生徒の選択の自由を尊重する「商品」のようになってしまっては、長野県がこういう子育てを保障する社会ではなくなってしまいます。
いま求められている教育改革は、「学校をどうする」ではなくて、教育をどうするか、子どもをどう育ててゆくかという広い取り組みではないでしょうか。
学校や地域の、さし迫った教育課題や教育方針について、子ども、教職員、保護者、地域の人々が言いたいことを言い合える場をどうつくりあげてゆくかが大事です。
こうした取り組みが学校ばかりでなく家庭や地域の教育力を高めることになるでしょう。
「中間まとめ」(案)では一学年六学級以下や地域高校であるなしにかかわらず、その存在意義を県民に説明責任があると迫っています。文字通りの県民参加の教育改革になれば、こういう言葉は不要になるでしょう。
すでに長野県下でも、辰野高校の三者協議会や辰校フォーラムなどすぐれた経験がいくつかあります。
辰野高校では、英語や数学の不得手な生徒に手厚い指導を行う基礎学力の充実にとりくんでいます。開かれた学校づくりをすすめ、教職員、生徒、保護者、同窓会や地域住民の意見交換の場として辰高フォーラムを開催してきました。
教職員、生徒、保護者の三者協議を開いて、「もっと分かりやすい授業を」という生徒の声に応えて、教員の側も授業の改善をはかることや、学校の自己評価制度を実施してよりよい学校づくりのための努力を積み重ねてきています。
このような独自の学校改革の努力の結果、平成十二年度には二十一人いた中途退学の生徒は、平成十六年度にはたった一人となりました。
「まちは学校、みんなは先生」という合言葉ですすめられている高知県の「土佐の教育改革」の取り組みは、一つの学校の取り組みにとどまらず、県という規模で、開かれた学校づくりの取り組みとしておおいに参考になります。
高知県では、数十年にわたって根深い相互不信と対立をくり返してきた県当局と教職員組合が「子どもの利益」を真ん中にすえて、話し合いと相互理解を深め
て、いっしょに力を合わせて教育改革に取り組んでいます。県知事を先頭に広く県民の意見をしんぼう強く聞き、時間をかけて「開かれた教育」をめざす県民的
な合意をつくる努力をしています。県段階では初めて、「高知県子ども条例」を制定ました。
「この条例づくりの過程には、多くの子どもと大人が参加し、長い時間をかけてそれぞれの思いを集め、大きな力となるひとつの形にしてきました。」(条例前文)
こうしてこそ、本腰をいれた県民参加の教育改革がすすむと思います。
もちろん条件はちがうので直輸入は危険ですが、こうした取り組みにも学んで、長野県の教育改革を学校からも、地域からも、行政からも、教職員組合からも発信して、県民的な運動にしてゆくことを提案します。
すべての子どもの基礎学力を保障し、人間形成を助ける学校に
ほんらい義務教育段階で身につけるべき基礎的なことが、十分身につかないまま高校に入ってくる子どもにたいして、基本的には義務教育の課題ではありますが、実情にあった学習が求められています。その上で高校にふさわしい、基礎的なものをきちんと学ぶことが求められます。
いわゆる「飛び級」は、対人関係や社会性、情操など高校時代に身につけるべきものを無視した知識偏重ともいうべきもので賛成できません。
また、自己肯定観を育て、命を大切にして、自分も他人も大事にする人権・人格尊重をきちんと身につけること、クラブ活動など教育の場における体罰や暴力は厳禁すべきです。
高校段階でも三○人学級の実現を
今日の高校生をとりまく社会情勢のなかで、高校段階でも一人ひとりに行き届いた教育の必要性は高まっています。三○人学級を高校段階まで広げることを提案
します。高教組などが提案している、段階的に「地域高校から先行的に三○人学級」を積極的に受け止めてすすめるべきだと思います。
教育費の父母負担を軽くします
「家計が苦しくて、授業料が払えない」「泣く泣く高校中退」など深刻な事態が公立・私立を問わず起きています。授業料の軽減をはじめ修学旅行やその他の費用の軽減や私立高校生への援助制度を強めます。
教育改革への県民的な討論を呼びかけます
県民に開かれた学校をめざす教育改革の提案は、高校教育にとどまるものではありません。義務教育段階でこそ求められるものです。県下各地で、教育改革をめぐる活発な討論がわき起こることを呼びかけます。
教育基本法 (抜粋)
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の幸福に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する
人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。
この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
第三条(教育の機会均等)@ すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
A 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
第十条(教育行政) @教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
A 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
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