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長野県政を語る鈴木 弘 はじめに 田中県政をめぐる一面的なマスコミ報道などによって、長野県民に、長野県政がどう変わってきたのかが正確に受け止められていません。 そのために、「共産党さん知事をささえてがんばって下さい」とか、逆に「せっかく知事選で応援したのにもう支持できない」など様々な声があります。また一部ではありますが「共産党の対応がよく分からない」という意見も寄せられています。 長野県政はどう変わってきたのか、田中県政の評価すべき到達点はどこか、また日本共産党として賛成できない部分、そして県政のなかで日本共産党がはたしている役割などについてきちんと明らかにすることが求められています。 県民の意識が大きく変わってきています 長野県民は2000年の知事選挙において、数千と言う団体の推薦をうけて、日本共産党をのぞくすべての県議と県下のほとんどの市町村長の推薦・支持を受けて、全県くまなく後援会組織をつくり、大政翼賛会と言われる磐石の体制を誇っていた副知事にノーをつきつけました。 さらに2002年夏の理不尽な不信任による出直し知事選においても、田中康夫氏の圧勝という結果をつくりだし、利権政治の復活を夢みていた勢力に再度ノーの審判を下しました。 このような結果を生み出した、県民意識の変化を正面から受けとめられるかどうかが長野県政を見る一番大事な点です。 長野県の何十万人という人々は、自分の一票で政治が変えられるという経験をしました。 それ以来有権者は、特定の有力者や組織・会社がきめても、よく見極めて自分の判断で投票するように大きく変わってきました。 2002年の知事選挙のとき、「ダム中止で一○○○億円の負担増」「改革の手法を問う」などといくらマスコミが世論誘導と争点そらしの報道をまき散らしても、有権者は揺るぎませんでした。 知事選の後、田中後援会長の穂刈かしおさんは「今回の勝利は県民の良識の勝利。県民一人ひとりが立ち上がれば政治は変えられる、そういう時代に入っているのです。」と語っていました。 この流れは選挙中の下諏訪町長選挙とその後の箕輪町長選挙、塩尻市長選挙へと続いて、自民・民主・公明・「連合」や市職労など二千五百団体の推薦をうけた現職を打ち破って勝利した松本市長選挙にも現れています。 長野県の有権者は確実に大きく変わってきている。ここをきちんと見ておくことが大事だと思います。 私はあるところで、一枚の写真を見たことがあります。 吉村前知事が大きな机を前にして悠然とすわり、その机の前に数メートル離れて上伊那地方の全市町村長と上伊那郡と伊那市、駒ヶ根市選出の全県議がかなり緊張した顔つきで横一列に整然と並んで立っています。それは見る人には、まるで皇帝陛下に謁見(えっけん)を賜る場であるかのような独特のふんいきを伝える写真です。 これは、南箕輪村に子ども未来センター誘致のための陳情の時のものです。この一枚の写真に、当時の県政と市町村の関係が一目で見てとれます。 当時毎年正月になると、知事に「あけましておめでとうございます」とただそれだけを言うために、全県の市町村長たちが県庁にはせ参じていました。 吉村知事が自動ドアの前にたつと、一歩すすんで足を出して自動ドアを作動させる人がいて、ちょうどこの時、汗をふきつつ出前の重いおかもちをもって、自動ドアのない裏口から入ろうとしたあるラーメン屋さんがこの光景に出くわして憤慨していたという話さえありました。 吉村県政(二○年間)の時代には、日本共産党県議団が二人の時も五人になってからも、知事にあうことは大変困難でした。知事室には本当に特定の県議しか入れなくて、県議のなかでも知事室に入れることが一種のステータスシンボルの観を呈していました。 日常的に知事が誰とあっているかは県民にはほとんど知らされていませんでした。 いまのガラス張りの知事室とは大きな違いです。 日本共産党県議団が切実な県民要求に基づいて、知事へ申し入れをするときも、吉村知事はほとんど面会しようとはせず、せいぜい二○年間に一回か二回くらいで、そのつど副知事が対応していました。 当時は、県民の代表である県議でさえ、部長にすらなかなか会えませんでした。
県議会開会中、夜になると今日は○○課と打ち合わせ、きょうは△△課と打ち合わせと称して日本共産党を除く会派の県議たちは毎晩各課による接待を受けていたようです。 議員公舎から黒塗りの公用車が夜の街に消えてゆきました また県議選が近くなると、カゲで「大名行列」と呼ばれていた事が行われていました。 県議が、地方事務所や建設事務所の課長や職員を従えて、自分の選挙区内をまわって、村や集落の人々から陳情を受け付ける行動を行います。 集落の公民館などで、集まっている住民からこもごも要求がだされると、県議は後ろに控えている県の職員を振り返って「こんなにみんな困っているんだ。なんとかしてやってくれ」といいます。職員は「財政状況は厳しいですが、○○先生がおっしゃることですからなんとか研究してみます」と答える。そこでくだんの県議は住民に向き直って「なんとかしてくれるってよ。よかったじゃねえかい」と言う。 すると全員が「よろしくお願いします」と県議と県職員にいっせいに頭をさげる。 こうして住民は「うちの○○県議はたいしたもんだ」となって、これが選挙の力になります。このためにあの県議は何千万円、この県議は千何百万円などと、予算に党派や実力の度合いによってランク付けされた県議枠というものがとってあってこれに対応していたといわれます。 こういうやり方で、県当局は選挙でもめんどうみて、個々の県議をすっかり抱き込んで、一部の実力者県議を中心に、県民生活をかえりみないムダな大型公共事業優先の県政をやりたいほうだいにすすめてきたのです。そのあげく、今日の1兆6千億円というとほうもない借金づけの県政にしてしまったわけです。 もはや、このようなでたらめなやり方はできなくなりました。田中県政になってから、県議にとっておいしいものはほとんどなくなってしまったのです。 ですから県議のみなさんは、田中県政に「あたまにくる」わけです。 旧県政会のある幹部はある集会で、「吉村県政の時代がなつかしい」と心からのべたそうですが、その気持ちが伝わってくるではありませんか。
かっては、現職の市町村長たちが気軽に知事批判ができるような雰囲気ではありませんでした。市町村の関係者は、県の職員のことを「県の役人」と呼び、市町村による県職員にたいする、いわゆる官官接待が当たり前のように行われていました。 私がうるが県議(当時)と石坂県議とともにこの問題で当時の池田副知事に自粛するように申し入れをおこなったところ、池田副知事は「情報交換に必要」という回答でした。 今はこういうことはほとんどありません。どこの市町村長たちも平気で知事批判ができます。 県民にとっても、県政のことが身近かになり、分かるようになってきた。関心をもつようになって、県政のことや知事の動向があれこれちまたの話題になるようになりました。 知事と県民がひざをつきあわせて話しあう車座集会もかっての知事のもとでは考えられないものです。 国政でも地方政治でも大事な問題の一つは、税金の使い方です。 日本共産党は国の政治のあり方として、公共投資50兆円、社会保障20兆円の逆立ちした財政のあり方を改めることを日本改革の大きな柱として提案しています。 長野県でも無駄なダムなど大型公共事業優先の県政が続けられてきた結果、1兆6千億円もの借金になり、このままの状態がすすめば、財政再建団体転落必至の状況にありました。 日本共産党は吉村県政の時代から、一貫して大型公共事業優先からの転換を主張し続けてきました。田中県政になってからも、今日の長野県の財政危機を乗り切るためには、思い切った公共事業の削減による県の財政構造の抜本的な転換を提言し続けてきました。 2002年の年末に長野県政は「財政改革推進プログラム」を発表して、公共事業の大幅な削減をうちだしました。 1996年当時公共投資4784億円、社会保障は1278億円と社会保障費は公共投資と比べて0.27と3分の1にもなりませんでした。それが、今年2004年度の予算では、公共投資1656億円で社会保障費1289億円とその比率はまだ公共投資のほうが大きいのですが、0.78と大分接近して、逆立ち財政の転換が大きく前進しています。 このような逆立ち政治の転換は全国的にみても例がありません。 その一方で、大型公共事業優先から、身近かな生活密着型の公共事業への転換がはじまりました。3億円の砂防ダム一カ所で1企業、下請けいれても数社がかかわるだけですが、去年2月議会に提案された県立高校の改修は2億円の予算で63校96カ所で関係業者は63社になります。 ダムが中止になった浅川では、前県政時代には年間三千dしか浚渫(しゅんせつ)されてこなかったものが、昨年一年間に二万五千dが浚渫されて、本格的に維持管理の手が入るようになりました。未改修部分の工事再開が始まります。 このような身近な公共事業は県民からも喜ばれ、地元の中小企業の仕事が増えるものです。 いままで県の仕事に参入できなかった比較的規模の小さい業者も県の発注をうけられるようになり、特に小規模工事の直接発注制度も部分的ではありますがはじまりました。 また民間もふくめて、土木・建設事業の大幅な減少のなかで、建設業者の業種転換への援助策を他県に先駆けてすすめてきています。 日本共産党は1、5車線道路など国の基準でなくローカル基準の道路行政を提案し、いまその方向がすすみつつあります。 県民要求の前進 最初当選した頃、田中知事は「30人学級より教員の資質の問題」というようなことを言っていました。旧オール与党勢力は「30人学級にはばく大なお金がかかる」などと脅しともとれる質問をくり返して、妨害をしていました。 日本共産党県議団は30人学級を求める県民の運動と結んで、何回も知事に申し入れをおこなってきました。とくに全国にさきがけて30人学級をすすめている、秋田県、山形県を視察しその成果の上に、「それほどばく大なお金がかかるわけではない」ことと、この両県に職員を派遣して「どうやって実現したか」見てくるように提案をしました。田中知事はこの提案を受け入れて、知事部局からと、教育委員会から職員を視察に派遣しました。 こうして、3年生までの30人学級が実現し、今年からは市町村と協力しあって4年生以上の学年の実施がはじまりました。 かっては、6年生になるときのクラス替えを避けてほしいという子どもたちの切実な声があがっても、市町村が単独で先生の人件費をだすといってもなかなか認められませんでした。 前県政のときに小海町が30人学級をやろうとしたら、県教委が町の教育長に電話でがんがんおどしてやめさせたことを思いだしてみてもたいへんな前進です。 三十人学級実現のために、県と市町村が協力しあってやろうと言うことは、財政困難の中でもなんとかして子どもたちの願いに応えようという知恵です。 これにたいして、反対勢力は子どものことはこれほども考えずに、本会議や委員会の審議を長時間にわたって止めるなど妨害策動がくりかえされました。 しかし、三十人学級をのぞむ県民世論にささえられ、県教育委員会もよくふんばりました。 田中県政になってから、県民の切実な要求に応える施策が着実に前進してきています。 今年の予算を見ても、身体、知的、精神の三障害者総合支援センターを地方事務所単位に10カ所設置や自閉症、発達障害者自立支援センターの設置など、福祉施策は大きく前進しました。 宅老所の設置は全国的にみても群をぬいています。一昨年、老人福祉施設をつくりたいと手を挙げたところは全部認められました。これも画期的なことです。 東部町のパナソニックが閉鎖・新潟県に移転する問題で、県はハローワークなどと相談体制をとって、企業に、再就職支援を最後の一人までめんどうを見るように一歩踏み込んだ指導をしました。こんなことは、全国的にみてもないことです。 また、国の基準を上回る若年者就業サポートセンターを松本市に設置して、長野市をはじめ県下各地の出先と連携して青年の就職相談の体制を発足させることになりました。 県民の要求や実態をにぎるために、県庁の幹部が直接現地に出向くようになりました。 石坂県議がADHDの子どもの問題を取り上げたとき、当時の教育長代行が直接学校へいって、子どもの実態を調査しました。高村県議が取り上げた、在宅酸素の患者についても担当職員が患者の家庭を訪問して、実態の調査を行いました。藤沢県議が取り上げた、県立高校のトイレについても、県教委は調査にまわりました。 不公正な同和行政の是正 日本共産党は、今日部落差別は基本的に解決してきており、部分的に残っているものがあっても個別の教育的な対応で十分できるものであるという立場をとってきました。 同和行政や同和教育をいつまでもやっていれば、かえって行政の側から差別を固定化するものです。同和事業の不公正なあり方には県民の厳しい批判があります。 日本共産党は同和教育も同和行政もやめるべきであると一貫して主張してきました。 長野県当局に「解同」との理論闘争の蓄積がないために、県の社会部の職員は「解同」が主張している「いぜんとして根強い差別が存在する」「同和問題を軸にあらゆる差別をなくす」「同和教育は必要」などという「解同」の独特な「理論」の呪縛にとらわれて、田中県政になってもすぐに「解同」いいなりの不公正な同和行政をやめることができないできました。 一昨年、「解同」はそこにつけこんで、約40項目にのぼる要求を突きつけてきました。 約40項目もありましたから、あらゆる面から、「解同」の主張が全面的に展開されていました。 それだけに、これにたいする回答も「解同」の路線に対する全面的なものを対置することがもとめられました。 当時の政策秘書室から石坂県議に「ご意見を」と照会があり、わたしたちはこの約40項目のすべてに一つひとつコメントして返しましました。 このコメントをつくる作業を、静まり返った県議会棟の日本共産党の県議団事務局の部屋ですすめながら、事務局の人と「この時歴史が動いた、としたいね」と話しあったことを今でも鮮明に思いだします。 そして、やっぱり歴史は動いたのです。 「解同」との交渉の当日、数百人の解同の交渉団を前に、はげしいヤジのなかで田中知事は一歩も引かずに毅然として対応して回答をしました。 私たちのコメントも役にたったかと思いました。 これは「解同」にとって大きな衝撃を与えました。しょせん同和問題は「どシロウトだ」とたかをくくっていた田中知事によって、彼らのよって立つ理論は完膚なきまでに論破されてしまったからです。怒った「解同」は横にいた社会部長に「社会部長がこの間言っていたことといま知事の言うことと違うではないか」と詰めよりました。 すると田中知事が、当時の社会部長をぎょろりと見て、「ううん」と咳払いとも、うなり声ともつかぬ音を発しました。 社会部長は「ただいま知事の言ったことが県の見解です」と答えました。 この時の交渉はマスコミに公開されていましたので、いあわせた「赤旗」記者はびっくりして、私たちの所へすっとんできて報告をしてくれました。 こうして東日本で一番同和行政が残っていると言われてきた長野県で、同和行政廃止の方向が大きく動きだしたのです。 同和教育推進教員は廃止され、「解放子ども会」も県の関与はなくなりました。 今年から、同和事業を担当してきた県の機構・部署はなくなります。 同和教育は完全に廃止されます。同和教育の教科書「あけぼの」も廃止の予定。市町村がどうしてもやるなら、全額市町村負担になります。同和教育推進協議会(同推協)の予算はゼロです。「解同」などへの団体補助金や委託金も廃止です。職業相談員、営農指導員、経営指導員の名で実質「解同」県連幹部数十人の人件費や手当だったものも廃止です。残ったものは、貸付金などの返還が残っているものだけです。 長年にわたって長野県政をむしばんできた、不公正な同和行政と子どもたちや教師を苦しめてきた同和教育が廃止になって、いまや同和問題は先進県になりつつあります。 この問題では数十年にわたり、勇気をもって解同のおどしに屈せず不公正な同和行政の廃止を主張し続けてきた日本共産党の果たしてきた役割は大きなものでした。
県議会が自民党の思い通りにならなくなりました。 2003年九月議会で県の人事委員の承認の案件で無言館の窪島氏が提案されました。日本共産党は賛成討論し、自民党は反対討論までしましたが共産党ふくめて賛成多数で承認されました。 また監査委員について、前県議の垣内氏について日本共産党は反対討論に立ち、自民党は賛成討論もせずに賛成しましたが、採決の結果不承認となりました。 自民党と日本共産党と賛否が真っ向から対決した案件で共産党の立場が通って、自民党の思い通りにならないことが起きた歴史的な事件でした。 同様なことが、今年(2004年)の2月県会の議会人事をめぐって起こりました。 正副議長を今年も来年も旧県政会で独占し続けようとしました。まさにおごりの現れです。 日本共産党県議団は、議長選挙に石坂団長を立ててたたかい、12票を獲得しました。 副議長選挙のなかで、この旧県政会の策略が知れ渡り、日本共産党は、このようなおごりを許せないと他派と共同して協働ネットの宮沢氏が当選して旧県政会が推しだした高橋氏がやぶれました。 もはや、県議会のなかでも、自民党や旧県政会が思いのままにぎゅうじる時代ではなくなっているのです。 日本共産党が提案した「自衛隊のイラクからの撤退を求める」意見書は25対31で否決になりましたが、あと6票にまでせまりました。そして超党派の22人の県議がイラク派兵反対の有志県議による、「ブッシュ大統領は占領政策をやめよ」「イラクから自衛隊を引きあげよ」などを内容とする、平和アピールを発表して、首相とアメリカ大使館に送ることができました。 東京からきたある大学教授はこの一連の経過をみて「よその県議会では考えられないことです」と目をみはっていました。
それでは、「長野県政はいいことばっかりか」、というとそう簡単なものではありません。 田中知事自身がもともと行政経験のない人ですから、集団の英知を集め、きちんと手続きを踏めばもっとスムースにことが運べるものが無用のトラブルを起こして、ぎくしゃくしていることが多々あります。 田中県政発足当時は、本来知事をフォローすべき立場の人たちが、十分フォローしてこなかったということもありました。今はむしろ、知事がまわりの人の意見を十分に聞かないのではないかということが懸念されます。オール与党・利権勢力は県政の不手際につけこんで、様々な妨害策動をくり返してくるわけで、時として田中知事の柔軟性に欠ける対応は、結果的には県民の利益に反するものをもたらします。 「結果が県民の利益になることだから」ということで、どんなやり方をとってもいいというものではありません。対応を誤れば、せっかくここまで変えてきた県政改革の流れをだいなしにしかねません。 日本共産党の県政にたいするスタンスは「利権政治の復活を許さないこと」とともに、「県政改革の流れをいっそう県民本位に前進させるためには、県民のための積極的施策には協力をおしまないし、積極的な提案、提言もどんどんしてゆく。不十分な点には必要な忠告もする。しかし、県民の利益からみて賛成できないことについては、妥協なく批判もし、反対もしてゆく」ということです。 いくつか弱点が目につくからと言って、変わりはじめた県政改革の流れを見失ってはならないと思います。 知事と職員がお互いを改革のパートナーとして 知事と職員がお互いに改革のパートナーとして、気持ちを一つに県政に立ち向かうことは多くの県民が願っていることです。 トップダウン式に、職員の納得と理解を超えて、矢継ぎ早に改革の課題が職場におろされても、改革がうまくゆくものではありません。 県職員の側にも、どうしたら県民の要求に応えられる県政にしてゆくか、受け身でない真摯な探求が求められます。 この問題についての日本共産党の立場ははっきりしています。 日本共産党の自治体労働者論の要点は次のようなものです。 1. 自治体労働者は自治体当局に雇われた賃金労働者であると同時に、住民全体に奉仕するという全体の奉仕者という立場。 2. 自治体労働者の賃金その他の労働条件は、住民の理解と納得が得られるものであるべきこと。 3. 自治体労働者は行政の民主的効率化、民主的改善を積極的に推進すべきこと。 などです。 小中高の教職員も大きくは自治体労働者です。子どもを通して、県民の深刻な不況やリストラとも日々向き合っています。 日本共産党長野県委員会が2003年1月に発表した、「長野県の財政再建をめぐる提言」のなかで、「県職員の人件費問題は、今回のような特別の財政困難のなかでの財政再建という、県民共同のいとなみのなかで位置づけられなければならない課題です。」とのべています。 これは、県職員の要求という視野だけで論議されていても、県民の理解は得られないということです。県民との共同の発展のなかでこそ、県に働く労働者の要求実現の道はひらけます。 同時にこの文書のなかで「県政の改革は県職員や教職員の協力があってこそ実現できるもの」とのべて、「県民要望実現のための施策を実現させる立場にたって労使双方が互いに力を合わせられるような真剣な話し合いが行われることを期待します」とのべています。 昨年は、労使の話しあいの結果妥結しました。 今年の寒冷地手当をめぐる問題は、話はまったく違っています。どこが違うか。 まず、知事の側が地公法にもとづく話しあいのルールを無視して一方的に突然もちだしたこと。 最後には知事の側が陳謝しましたが、ついに労組側と話し合いに入らないまま、2月県会に提案されてしまいました。 日本共産党県議団は、労組との話し合いも始まらないものは提案すべきでないと、知事に提案の撤回を申し入れ、代表質問でも主張しました。この問題で撤回を申し入れたのは日本共産党県議団だけです。 労働者の労働条件について、労使の話しあいもないまま議会で決着をつけることは大きな誤りであり、将来に禍根をのこすものです。 かって日本共産党員が市長をしていた東大阪市で、「賃金問題で」労使が話しあっている最中に自民党と公明党が、臨時議会を招集して、賃金切り下げを議決してしまったことがありました。労働者は議会に雇われているわけではありません。その議会が労働条件について労使の話し合いの最中に一方的に決めることは、憲法に保障されている労働者の基本的な権利をおびやかすまったく不当なものです。 今回も、一部に議会での否決を願望するかのような動きがあったと聞きますが、これはまったく労働組合にとって自殺行為です。 日本共産党は撤回をもとめましたが、県議会の議題になったときは、「継続審査」として、その間に時間をとって労使の話し合いをすべきだという立場をとりました。議会としての結論は継続審査となりました。
県議会の利権・開発優先の勢力は、県民の利益より自分たちの利益、もっとわかりやすく言えばかってのような利権県政の復活を優先させて、「とにかく妨害」としかいえないような妄動をくりかえしています。 昨年12月議会では、父母や生徒たちから長年にわたって要望が出されていたが、吉村県政のもとで延ばしに延ばされてきた、稲荷山養護学校改築に使う木材の事前調達の予算を否決して、18年度開校を妨害しました。そのために県はやむなく、開校を1年延期せざるを得ないと提案しました。 予算を否決した議員たちは何ら恥じることもなく、自分たちのやったことを棚上げにして、県に責任を転嫁して18年開校をせまったのです。日本共産党県議団は、県民の切実な願いを政争の具にすべきではないこと。一日も早い開校を待ち望んできた子どもたちや関係者の願いに応えて、18年に一部でも使えるところから、使ってゆくように求めました。 教育長も、「3分の2は使用可能」と部分開校を表明しました。 利権・開発優先の勢力は、2月県会のなかでは、県政が厳しい財政状況のなかでも何とか県民要望に応えようと策定した「信州モデル創造枠予算」一覧表を手にもって、各委員会で1事業は否決しよう、と策動がくり返されました。県民の要望にもとづくのでもなく、まず否決・削減ありき・とにかく県政の妨害、としか言えないようなものでした。 地元町村からも要望のあった、南安曇の万水川の堤防につくるせせらぎ自転車道や県観光情報センター移転改築、外郭団体見直しのために、それぞれの団体の財務状況を調査するための費用などを否決してしまいました。 一方では、地元の人もムダな事業だと言って休止になっていた、飯田市の松川ダムの排砂トンネル工事(6億八700万円)を復活させました。 利権県政の復活をゆめ見る懲りない面々の懲りない策動はまだまだ続いています。
様々な困難や弱点をかかえつつも、県政は確実に前向きに変わってきています。 けっして小さくはないことかもしれませんが、いくつかの弱点を過大視して、県政の前向きの変化を見失ってしまうことは自民党勢力の思うつぼにはまってしまいます。 いろいろな分野で県民要求の実現のさまたげになっているのは、自民・公明政権の悪政にこそ最大の原因があります。長野県政にとっても、地方をムダな大型公共事業に誘導してきた国の地方財政のあり方や、とくに今年になって一方的な交付税の削減などによって、県財政は370億円もの財源不足が言われるようになりました。これがどれほど県民のための施策実現のさまたげになっていることでしょう。 八百五十億円もの財源不足になるお隣の新潟県の平山知事は「いきなり十二月に収支不足が倍になるやり方はむちゃくちゃ。参議院選挙の争点として問題提起したい」(読売二月七日)と怒りの声をあげています。 また、国の経済政策の失政は、長野県の経済にはかりしれない困難をもたらしています。 このことがまた、県税収入の悪化をもたらしています。 一部の人たちは、政府の一方的な地方財政削減によって、県民要求にもとづく事業が中止になったり、十分応えられなくなっている事態をすべて田中県政の責任にして、自民・公明政権を免罪する議論を意識的に広めています。県民を苦しめている本当の原因を見誤らせるものです。 また、一部労組幹部が集会などで、「諸悪の根元は田中県政にあり」と受け取られるような発言が見られました。これもまた結果として、真の原因を見失わせるものです。 日本共産党は今年一月に開かれた党大会で新しい綱領を決定しました。この中で地方自治について「地方政治では「住民が主人公」を貫き、住民の利益への奉仕を最優先の課題とする地方自治を確立する」と明確にしています。 様々なジグザグ、試行錯誤もありますが、確実に変わり始めて、この長野県で切り開きつつある新しい地方政治の流れをさらに発展させなければなりません。 政治を考える上で、国政の革新は一番大事な課題です。国政では、自民・民主の「二大政党」は憲法改悪でも、消費税でも悪政を競いあっています。地方政治では開発、利権優先では自民も民主も同一歩調です。 今年おこなわれる参議院選挙は、長野県の財政・経済の上からも、また党派間の力関係を変えてゆくためにも大事な選挙になっています。 日本共産党の躍進を勝ちとるために全力をあげてがんばりましょう。 <2004年4月20日 『民主長野』4月号掲載>
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